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2011年5月18日 (水)

ぶらKOUMORI(銀座の川を歩く(外濠川))

銀座周辺というより江戸を中心とする街並みには「橋」と名の付く地名が多く存在します。
橋がなくても橋の付く地名のほとんどは昔は川があって橋が架かっていたのです。

ということで、このぶらKOUMORIで銀座街歩きの一環として、
銀座周辺の川を撮り貯めた写真から紹介してみたいと思います。
まずは外堀通りから始めます。

外堀通りは名前からも想像が付くと思いますが、外堀の脇にあった通りです。
当然、外堀というのは江戸城(現在の皇居)の外堀ですから、
外濠川という川というか水路がありました。

川となっていますが、正式には外濠川近辺は江戸前島と呼ばれる砂州であったものを、
埋め立てや開削によって運河のような水路を築いたのです。

外濠川は日本橋川から呉服橋交差点付近で分流し、新橋駅前の土橋交差点付近で
汐留川に合流してました。
それでは新橋駅銀座口から歩いてみましょう。
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新橋駅の銀座口を出て信号を渡るとすぐに高速道路「土橋」出入口と
「土橋」交差点が現れます。
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上に架かっている高架橋の高速道路、その位置が江戸城を巡る外堀の一つ「汐留川」です。
ということで、橋が架かっていた部分は高速道路を横切るようにあったはずです。
外濠川に架かっていたのではなく、汐留川に架かっていた橋ですね。
詳しくは汐留川のときに説明します。

外濠川を銀座方面へ遡っていきます。
新橋から数寄屋橋までの外堀通りは、実は外濠から離れています。
実際に外濠川があったのは、高速道路とJRが通っている辺りの銀座コリドー通りです。
(基本的に高速道路の下と八重洲線の上が外濠川です。)

銀座コリドー通りを歩いて行くと日比谷方面に抜けるガード下があります。
この付近が「新幸橋」です。
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この橋は、震災復興事業と同時期の昭和4年11月に新設されました。
もちろん隣にあった幸橋から名前は来ています。

旧京橋区の藤平久太郎氏が企業等の寄付を募って架橋し、完成後旧東京市に寄付したものです。
藤平久太郎氏という人は検索してもでてきませんでしたが、
近くに藤平ビルというビルがありますのでそれに関係があるのかもしれません。

なお、外堀と思われる部分がJRの高架と高速道路の高架の間の小路にあります。
ここの小路だけ路面が下がっていて、脇のビルの1階が高い位置にあります。
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コリドー通りを進むと、再び日比谷方面に抜けるガード下があります。
ここは小さく「山下橋架道橋」と表示されています。
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「山下橋」というより「山下御門」で、江戸城の外曲輪の一つです。
残念ながら、山下橋という名称がかすかに残っているだけです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Yamashita-Mon.JPG

山下橋は江戸時代にはありましたが、関東大震災後の昭和5年03月の震災復興祭時点で未竣工だったようです。
埋立てにより昭和34年11月に廃橋となりました。

山下御門から数寄屋橋方面に向かうと趣のある建物があります。
中央区立泰明小学校で、校舎は東京都選定歴史的建造物と
経済産業省産業近代化遺産に指定されています。
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話を戻して、外濠川の「数寄屋橋」に着きます。
交差点名や公園名となっていますが、高速の架かっている部分が川ですから、
正面に橋があったはずです。
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「数寄屋橋」も「数寄屋橋御門」といって、江戸城の内曲輪の一つです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Sukiyabashi-Mon.JPG

震災復興橋梁として昭和4年5月にできましたが、埋立てにより昭和34年11月に廃橋となりました。

ここからは外堀通りが本来の意味通り外濠川の通りとなります。
銀座西3丁目の交差点辺りのマリオンから抜けてくる高架下が「丸の内橋」です。
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外濠川に架かる橋には違いないけど、明治時代の古地図には出てきません。
震災復興橋梁として昭和5年12月に架設され、埋立てにより昭和34年11月に廃橋となりました。

そして銀座西2丁目の交差点、有楽町駅中央口やイトシアから抜けてくる高架下が「新有楽橋」です。
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ここも震災復興橋梁として大正15年12月に作られ、
埋立てにより昭和34年11月に廃橋となりました。

銀座西2丁目の次に、「有楽橋」が現れます。ここは交差点に名前が残っています。
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この橋も関東大震災後の震災復興橋梁として大正15年12月に作られ、
埋立てにより昭和34年11月に廃橋となりました。

有楽橋の次が「比丘尼橋」ですが、分岐後の京橋川に架かっているので、
詳しくは京橋川のときに説明します。

次の橋は、「鍛冶橋」です。
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鍛冶橋御門があった場所で、門前が鍛冶町だったから鍛冶橋という名前が付きました。
鍛冶橋跡の碑が建っています。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Kajibashi-Mon.JPG

江戸時代の御門としての橋がいつなくなったのかはわかりませんが、
大正3年12月に作られ関東大地震に耐えましたが、埋立てにより昭和25年7月廃橋となりました。

東京駅の八重洲中央口付近に来ると「八重洲橋」があったらしいが、
痕跡は見あたりません。
八重洲橋は八重洲中央口前の交差点辺りにあったようです。
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「八重洲」の語源は、ヤン・ヨーステンという外交顧問に登用された
オランダ人から来ているようです。
ちなみに元々の八重洲というのはは、現在の丸の内にあったらしいです。

震災復興橋梁として昭和4年6月にできましたが、埋立てにより昭和25年3月に廃橋となりました。
橋脚だったようなものがありますけど、これは何なんでしょうか。
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そして最後が「呉服橋」です。
外濠川の4つの外郭門のひとつ、呉服橋御門です。
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呉服町の町名にちなみ呉服橋という名前が付きました。
古くは後藤橋といったそうです。呉服師の後藤家の屋敷が門外にあったためです。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Gohukubashi-Mon.JPG

実際の呉服橋の位置は、外堀通りの呉服橋交差点からやや西の位置で、
大和呉服橋ビルとNTTデータフィットの前辺りかとおもいます。

江戸時代の御門としての橋がいつなくなったのかはわかりませんが、
大正3年12月に作られ関東大地震に耐えました。
しかし、埋立てにより昭和25年3月廃橋となりました。

そして一石橋のやや西側で日本橋川と分岐点となります。
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ここまでが外濠川となります。

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